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もへじゐの仏蘭西料理風姿花伝
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悠久堂は悠久の時を超えて
今から10年程前、今の様にAmazonや、Yahoo!オークションなどが主流になる前には、フランス料理関係の本を調べるのには、やはり神保町の古本屋街に出かけたものだった。
大抵は見慣れた、売れずに積んである在庫を尻目に、見たこともない様な掘り出し物があると、それだけで何か目的を達成した様な気になって意気揚々と帰宅するのだが、家に帰って良く精査すると、実はつまらなかったりと言う事があったりするのも”ある種のお約束”であった。
もちろん、古本屋のプロの手に掛かれば、ちょっと来て古本を探す手合いなどは、そもそもお客さんですら無かったのだろうから、それこそ赤子の手を捻る様に、本当に素晴らしい見つけものなどは遭遇する事は稀であった。
それでも、あの古本屋街の独特の紙の匂いと、「何かあるかも?」と言う射幸心にも似た気持ちが神保町に向かわせる原動力でもあった。
そんな感じで適当に通った神保町であったが、今になって整理していみると、自分にとって、結局”掘り出し物”的であったのは、あろうことか、フランス料理関係では無く、「和菓子」の本だったりもしたのは、やっぱり”神保町の魔術”とでも言う他は無い。
色々な本屋を巡ったものだが、結局、フランス料理関係の本は「悠久堂」と言う書店が一番整理されて品揃えも良く、買わずとも何度となく通ったものだった。
フランス料理店で、シェフ達とフランス料理談義をしていた際にも「悠久堂良く行きますよ」などと言う話も出たりしたので、業界の方も良く通う有名なお店でもあったのだろう。
扱っている書籍の種類としては、フランス料理に限らず、「懐石」「中華」「ワイン」「お菓子」などの料理関係の他、日本の古美術に関する書籍がメインである。
色々と魅力的な本が立ち並ぶ中で、結構な値段の本も散見したが、しかし、この価格で?と思うとなかなか手が出ないのが、この古本屋の品揃えでもあった。
その後、ネットオークション等が身近なものになるに及んで、わざわざ神保町に行かなくても、それこそ全国からお目当ての本を手に入れる事が出来る様になった。
とは言え、オークションとは「相場」のあるものゆえ、直観的・体感的に「高い」「安い」が分かったとしても、適正な価格と言うのは分からなくもあり、そういう時にはこっそり神保町に行った書店の価格を覗きに行ったものである。
そんな事もあり、次第に神保町界隈には足を向けなくなったのだが、最近、仕事の関係で、神保町周辺に出向く事があり、懐かしさの余り、かの「悠久堂」へと足を向けたのだった。
お目当ての悠久堂は、直ぐに見つかったが、以前来た時に比べて、大分、書店の数自体が減ったような神保町であった。
時代の趨勢と言う事でもあろうし、再開発と言う事もあるのだろう、以前、出入りしていた書店も探してみたが、何れも見つける事は出来なかった。
そんな中でも「悠久堂」は残っているのだから、大したものだと思いつつ、懐かしい店内に入って、色々と変化を確認したりしていると、カウンターの方から声が聴こえてきた。
本を売りに来た男の人と、店主の人とのやりとりで、
「今は、その関係の本は人気が無いんですよ。昔は良かったんですがね。京味さんの本でもあれば、また違うんですが……」
などと言う感じであっただろうか。
恐らく、男の人の奥さんが集めていたであろう「茶懐石」の本などであったのであろうか。奥さんが亡くなられたのか、あるいはお茶を止めるので、不要な物として処分をしに来たのだろう。
買い求めた当時は、万金の値があった書籍であろうから、売れば幾何にでもなるだろうと、或いは、もの凄い高値が付くと思って来たのかもしれない。
しかし、その目論見は見事に外れてしまった。
重い書籍を何冊も持ち込んだ男性は、殆ど何も言わずに引き揚げていった。
本屋も商売であるから、幾ら重い本だったり、過去に値打ちのある本であっても、今現在市場価値が無いモノを買う事は出来ないのが道理である。
持ち込んだ男性もそれが解っているがゆえに、何の抗議もせずに店を出ていったのだと思うが、それにしても過去のモノに価格が付かないと言う事は何とも切ない話ではある。
所謂、「古美術」であるとか「おもちゃ」であるとか、「本」であるとか、某TVの鑑定番組などでもお馴染みの事でもあるが、それを手に入れた人が考える価値と、市場価値とは常に別である。
それが望外の高値(価値)で終われば素晴らしいのだが、多くの場合にその様な事は無く、むしろこの様に望外の安値(無価値)で終わる事が”相場”であろう。
そう考えると、「時間的価値」がマイナスに働くなんて、ちょっとしたブラックショールズ式の様なトンデモナイ化けものが潜んでいるな、と思ったりもする。
「古本」や「古美術」で”一儲け”などと考える事はないけれど、しかし、「時間的価値」が+では無く、-に働く事は、それに慣れてないと、ちょっと衝撃が大きい様な気がする。
”時間的経過”を経る事が素晴らしかった時代はどこに行ったのか?
久しぶりに「悠久堂」に足を踏み入れてみて、なおさら、そんな想いを強く感じてしまった。
思えば、日本の伝統文化の一翼を担う「茶の湯・茶道」の重要な「茶懐石」。その本に価値が無いと言うのは、何とも悪い冗談に様にも聴こえるが、「畳」に正座が出来なくなって、「炭」を使うのも難しい現代の状況を考えると、観光やちょっとした趣味としての領域としては残るのだろうが、その神髄に命をかけるなどと言う事も無くなっていくのだろう。
以前、某茶室の展示をするギャラリーでお話をしたある方が「利休さんは命を懸けたけれども、今はそんな事はないですからね」と静かに言っていたことが頭をよぎる。
”悠久の時”を経て、なお価値を保ち続けていくモノ………
「古典」「伝統」と名前はあるけれど、実は、本当に難しいな、と思うのは、今の日本が(世界が)静かにパラダイムシフトしているからかしらん?などと思うのは、神保町と言う街それ自体が、異空間と言う事なのかも知れないと思ったある日の午後だったのでした。
神保町 悠久堂