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もへじゐの仏蘭西料理風姿花伝
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かつてありふれたものがご馳走になる:美味しんぼ47巻より
「美味しんぼ」と言うマンガは、その内容に色々と物議を醸す点もあるが、間違いなく、昭和から平成にかけて”食”と言うものについて切り込んだエポックメイキングであろうと思う。
その中でも作品的に一つの昇華でもあるのが、主人公達の人間関係に大きな変化が生じる47巻の結婚式の場面である。この中で海原雄山なる巨人が言う「かつてはありふりた食材であったものが今はごちそうとなる。」フレーズがある。
これは、物が美味しいかどうかと言う事もさることながら、(海原雄山の言葉を受けて他の登場人物が語る)「日本は頑張って発展してこんなものしか食べられない国になった」と言うフレーズも含めて、爾来、今に至るまで心を打たずにはおられない言葉(概念)でもある。
(極めて人口に膾炙した物言いではあるが)日本人の社会や経済が発展する中で失われてきたものは多い。それは利便性を追求してきた結果でもあるから止むを得ない部分も大きいだろう。だが、その代わりに人間の根本をなす食事に旨味が無いとか(栄養が乏しい)、手に入れるのに難がある(入らない)と言うのは非常に考えさせられる。
私は、その象徴的なものとして”鰻”があると思う。
「鰻」が何時から高級な食べ物になったのか、その時期は悩ましいが、江戸時代にかの平賀源内が”土用の丑の日”と言うキャッチフレーズを作るまでは、手軽に栄養補給が出来るざっけないファストフードの様な意味合いであったろうから、そうそう高級なイメージであったとも思われない。 とはいえ、食事に関するものの常として、鰻を扱う店も露店や行商の様なものから店を構えてのものや、武家の接待の場としての料理屋としての鰻屋などもあったであろうから、鰻の高級性云々と言うよりも”高級な鰻の料理もある(値段の高い鰻の料理もある)”と言った方が表現的には妥当なのだろう。
その後の鰻の食文化における位置づけとしては、文人墨客が愛した鰻であったり、政財界の大物が食べる鰻と言った様々なバリエーションを伴って鰻の価値も上がっていったのだろうが、他方、庶民目線では江戸時代からの流れである滋養強壮や暑気払いと言う意味であったり、来客時のちょっとしたご馳走として使われる様な事が多かったであろう。
(大正初期の第一次世界大戦の成金が鰻のかば焼きを焼くのに札束で焼いたとか、清浦圭吾の鰻香内閣の事例もあったりもあるが、長谷川町子が「いじわるばあさん」の中でいじわるばあさんの四男坊の漫画家が騙されて、仕事の期日を間に合わせるために鰻重を取ってくれと頼むシーンなどは、鰻に対する事例として面白い)
そんな具合で、それぞれの立場や懐具合に応じて”鰻”のお値段はあった訳だが、ざっくりとした感覚で言うと、昭和の末頃(昭和60年頃)で2000円前後、バブル期を経た平成でも大概3000円前後も出せば上鰻重が食べれたように思う。
が、丁度2012年頃位であろうか?3.11の辺りを境にして鰻の不漁が出てきて鰻の価格が上がって行った。
それこそ、まさに”鰻登り”であって、それこそハント兄弟もびっくりの価格騰貴であるが、残念ながら「銀」とは違って鰻様はエンバーゴでは無く不漁との事ゆえ値下がりの気配さえない。
当然、鰻重の価格も上がる訳で、南千住の尾花と言う有名な鰻屋は美味しい事と、それに比例してお値段もなかなかと言う事で有名だったが、2011年には3000円、4000円、5000円と3種類の鰻重の価格設定だったのが、2011年11月には3800円、4500円の2種類になり、2012年には4500円、5500円となり、一時2017年に4300円、5300円となるが、2018年には5300円、6300円となり現在に至る。
尾花は人気店で予約はおろか食べる人全員が揃わないと入れないと言う、所謂「並ぶ名店」であったわけだが、2011年11月に価格が上がった際には客が並んでおらず、行って直ぐに入れたという事が何回かあった。また、価格設定が3種類から2種類になって最低の価格が底上げされた事の影響を考えての事だろうが、ランチ限定で「うな玉丼(3500円)」と言うメニューも登場した。
一般に鰻重で4000円と言う価格設定がどの様なものかは(当然)人それぞれだろうが、十分に高い価格設定だろう。しかし、2011年値上げ前時点での尾花の鰻にはそれだけの価値があったように思う。現に自分も良く通ったし、接待を始め、人と良く連れ立って舌鼓を打ったものである。
ところが、2012年に尾花に行ってびっくりした。
あの尾花特有の甘くふわっとした鰻の感じでは無く、痩せて薄くなった鰻が出てきたのであった。
これは正直驚いた。私の様な素人でさえ感じるのだからプロはもっと忸怩たる想いであろう。それでも店を潰さないためには止むを得ないのであろう。当時の一寸したパニックの中で、品薄状態の中、相当数の鰻を仕入れるのはかなりのご苦労ではあったに違いない。だから、それが尾花の味が落ちたと言う事は出来ないと思った。
むしろ、尾花ですらそんな有り様では他店でも似たり寄ったりの状況であろうと思い、”どうせ鰻に大枚を払うなら天然鰻を食べるか”と切り替えて、都内を含めて遠征もしたりした。 その甲斐あって、幾つか良い場所も見つけたが、さりとて普通の鰻が気にならないと言えばウソであった。
暫し鰻重から遠ざかっている間、ブランド鰻として「共水うなぎ」と言うものが脚光を浴びるようになっており、この共水ウナギを扱っている入谷の野田屋というところに食べに行った。流石に鰻屋の元締めとしてだけあってムラ無く綺麗な鰻重を堪能させて貰い、久しぶりに鰻に舌鼓を打ち大いに喜んだ。
が。2016年で6000円と言うお値段(2019年では7800円)。これを考えると非常に複雑な気持ちになる。
当然、仕入れ値が高騰しているために値段が高くなる理屈ではあるが、これに技術料+αな点での価格設定は分かるのだが、鰻重単体でその値段か?と思うと逡巡するのである。
丁度、鰻の価格が騰貴する2012年頃、さるフランス料理のシェフと鰻の話をしていた事がある。
(「鰻」は日本人だけが食べるものでは無く、ヨーロッパではオランダ・ベルギーで食べるしフランス人も食べる。フランス語で「鰻」はanguille(アンギーユ)と言うし、ヤツメウナギすら食べる(lamproie:ラーンプルワ))
「シェフ。今度、鰻重を作ってくださいな?(笑)」と言ったら
「もへじさん。鰻なんて別に捌けるし、焼けるけど、自分はフランス料理なんで、フランス料理を頼んでください。」
「大体、俺らシェフは鰻くらい普通に捌けるし料理できますよ。もへじさんだってフランス料理に鰻があるの知ってるでしょう?」
「俺ら、出来ないものなんてないですよ?、昔、チーフ(高橋徳男氏)の下で働いていた時に、業者に活きの良いニワトリを持って来てと言ったら、本当に生きてるやつをもって来て………しょうがないから捌きましたよ………略」
「え~~じゃぁ鰻重をお願い~」
「ま、考えておきます」
と言うやり取りが交わされ、そりゃそうだ、フランス料理のシェフは鰻だけ調理するのではなく、それこそ何でもやらないといけない訳だから、経験値や技量は必然的にあがる訳で、フランス料理のあの手順やこの手順と言った膨大な流れを考えれば、「鰻重」なんて軽く出来るだろうし馬鹿にするなと言ったところでもあったでしょうね。
別に、鰻重とフランス料理を比較する訳でもないし、フランス料理至上主義者でもないが、鰻屋に行って鰻重他数品しかメニューが無いのは何だかな?と言う事はしばしばある。先の野田屋は鰻屋の元締めとしての矜持もあってか色々と試行錯誤もされているようだが、フランス料理目線だと何やら物足りなく感じる事になってしまう。
無論、鰻で何か変わったものを食べたければ料亭とか割烹にでも頼めば良いという事になるだろうし、フランス料理と鰻屋を天秤にかける事はそもそも次元の違う話でもあるあろう。しかし、一品(一皿)6000円も8000円もする単品メニューとは何よ?と思うと、些か釈然としないものが付きまとうという事である。
その後、縁あって、先ほどのシェフとは違う実力派の方に「鰻」でコースを作って頂いた。
それはそれは、バラエティに富んだ、目にも綺麗で舌に美味しい品々であって、改めてフランス料理の技量に感嘆すると共に、自分達日本人の和食と言うジャンルの「鰻」が「鰻重」から進化できていない事に尚更ショックを受けてしまった。
決して、「鰻重」が嫌いとかそういうわけではない、むしろ、鰻重は大好きである。しかし、値段とのバランスを考えた際に、綺麗に焼いて形を整えて1万円近くと言う事にバランスを失っていると思ってしまう自分がいる訳である。
少々、話が逸脱したが、美味しんぼの海原雄山が「かつてありふれたものがご馳走に」と言った時代はデフレの加速した時代ではなく、むしろバブルの残り香が漂う時代でもあった。だから、直接の含意としては”モノの味”や”環境”と言った部分を根底に持つ発言であり(そういう意味で、高橋徳男氏の箴言とも重なる部分である)、四半世紀を振り返って観て、まさに”慧眼”であったと言うほかはないのである。
”鰻重を食べたいとは思う”。しかし、一人前6000円も8000円も払って「鰻重」だけか?と思うと逡巡する。そんな”贅沢な食べ物”に鰻はなってしまったのである。