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箱根桃源台: 2019年03月31日:オーミラドー(AU MIRADOR)


    平成も残すところ僅かとなった時、どうしてもこの人の料理を実際に食べておきたいと思った。
    改元の発表を次の日に控えた3月31日の事である。
    目指すべき箱根までの切符をとり、車上の人となった。そう、伝説の料理人である”勝又登”氏の料理を食べてみたかったのである。

    (左)オーミラドー正面(右上)ウェイティングスペース(左下)同上



    さて、箱根(箱根湯本)まではロマンスカーで一本とはいえ、そこからオーミラドーのある桃源台までの土地勘は無かった。
    今を遡る事、数十年前は良く箱根に来たものだったが、何分、自分では何一つ旅行日程を立てたわけでは無く人任せであったので、皆目見当もつかなかった。
    それでも、今はネットと言う便利なものがあり、あれこれと調べれば、おおよその見当のつく時代ゆえ、今回の箱根行きもさしたる不安も無く実行に移せたとも言える。
    とは言え、箱根の時刻はあって無きがごとしは、数十年前の記憶としては残っていた。折角箱根に行くのだから、ラリック美術館でオリエント急行も見たいとか、湯本の富士屋ホテルでアップルパイを食べたいなどと妄想が炸裂しつつ、湯本からミラドーへの行程を幾つかリストアップしておいた。
    単純に、「スマホ」持って行けば事足りるじゃんと言う向きもあられるかも知れないが、何分、自分はガラケー使いでスマホは良く分からない世代なので、このご時世にと笑われるが、手書きの地図と時刻表を書いて持参したのだった。

    案の定、箱根の悪魔は直ぐに到来した。箱根湯本下の綾波レイを見ながら、西武バスを待つ。しかし、いきなりの10分程の遅れである。
    ミラドーにはバスで行くので遅れるかもしれないと前もって予約の際に伝えておいたが、ここでいきなりのタイムロスは何だか出鼻を挫かれた感じさえした。
    そうこうするうちに、バスも来て、そこからはバスに身を委ねる身となった訳だが、やはり数十年ものご無沙汰で、何が何だかさっぱり見覚えのある景色はなかった。
    途中、中国系の一団が20人近くも乗って来たであろうか。どうやら大涌谷に行くらかった。暫しバスが進んだ後で、運転手が何やらトランシーバーでやり取りをしていたが、おもむろに客席の方に向けて、大涌谷行きの道が渋滞でバスの乗り継ぎで1時間30分近くも掛かるので、ロープウェイを利用した方が早いと言うアナウンスであった。
    当然、20人近くの一団にも日本語が達者な者がいたのだろう。決断が早いのか、利に聡いのか、直ぐにバスを降りる事となって、それこそ(吉川英治の)赤壁の戦いの後の魏軍の様な勢いでバスを降りて行った。
    日本人の乗客は元々少なかった事もあるし、自分のガラケーでは今更、調べても元の木阿弥なので、大人しくバスに忠誠を誓ってそのまま桃源台まで行く事にした。
    その決断が正しかったか否かの結論は無いのだが、結局、そのバスはその後の渋滞に嵌り、携帯の電波も繋がらない道を30~40分程ノロノロと徐行して走っていった。
    暫くして、携帯の電波が入る様になって、ミラドーに予定の時刻より遅れる事を告げるために電話をした。
    「勝又です。」と電話の向こうの主は名乗っていた。

    渋滞を抜けると、直ぐに「湖尻下」バス停になり、ようやくバスの旅からは解放された。

    別段、バスや車の旅を否定する訳では無いが、やはり時刻通りに物事が運ばないとイライラするのは、東京で生活している者の良くないところだろう。
    特に、携帯でやる事が無いので、携帯の電波が入らない事に絶望感は無かったが、到着の時刻と言う事で相手がある事に関して連絡がとれない事には些か疲れてしまう。
    本来ならば、そんな”不自由”を含めての箱根旅でもあるのだが、悟りを開けていない我が身を顧みると、変化したのは姿形ばかりなりと言う哀れさであろうか。

    さて、そんな無粋な悩みは、ミラドーに到着して、白亜の賓館(パヴィオンミラドー)を見て、更に、本館のオーミラドーを見たら忘れてしまって、さぁ何を食べようとチェンジする所に、またもや人間の不徳さを感じたりもするのであるが、「美食我が人生」の中ではそんな悟りもどこへやらと、ウキウキとミラドーへと入って行った。

    (左)位置皿(上中央)テーブルの上の世界(右)水(左下)フォアグラ煎餅(下中央)5種の前菜(右)フキノトウ



    入り口には、髭を蓄えた紳士がお出迎えに出てくれていた。名前を告げると恭しく館内のウェイティングスペースへと案内された。
    席の準備が出来た案内を受けて、陽光の差すテラスのあるテーブルへと案内された。
    開設以来、このテラスを訪れた政財界の偉い人や著名人を始め、色々なドラマがあったんだろうなぁと。
    そして、我が身の様に、”ただ旨いモノだけを探す人種”も幾人も迎えたであろう、と思うと何やら可笑しかった。

    さて、オーダーをと思っていると、ドリンクの話になったので、「水」をとお願いして、目の前の透き通るグラスにこれまた磨き抜かれた水が注がれる。心なしか水も美味しい。
    ガラス張りのテラス越しに見える箱根の山の景色を見ながら飲む水に感慨を覚えていると、やにわに、先ほどの髭の紳士によって、丸い肌色の形の団扇上の物が運ばれて来た。
    「フォアグラの煎餅」との事。そして、若い給仕の者達が続いて、前菜をサーブしていく。
    (前菜:烏賊墨のブルッケスタ 南瓜のコロッケ 魚卵とクリームのエクレア ワカサギのフリット フキノトウのベニエ であった。)

    「一つの演出」と言う事も、この様な非日常の空間においては大事な事なのだろう。髭の紳士に続く、若い給仕の流れる様なサービスは、ここに来るまでのバスの出来事など吹き飛ばしてしまった。

    そして、「パン」がオリーブオイルとバルサミコ酢と共に運ばれてきた。

    次に、「トコブシと雲丹のパイ仕立て、長ネギと貝のソースで」を、恭しく掲げながら、またも髭の紳士が登場をした。
    時が止まったかの様な、ガラス窓のテラスルームと言う非日常に、緑色のソースを纏ったフランス料理を捧げ持つ髭の紳士が登場する。まさに居ながらにして演劇を観ている(渦中にいる)かの様であった。
    もちろん、どの料理も美味しかったのだが、「トコブシ」が登場してくる場面の非日常性が新鮮であったせいもあって、この「トコブシ」の一皿が今回の箱根の料理の中では一番に印象に残っている。
    (貝とネギの単体の組み合わせが美味しいのはもちろんなのだが、これがソースになった際に、長ネギと貝が反目し合わないのは、技術のなせる事なのだろう)

    そして、「スズキのロースト カボスのエミルショネ リコッタチーズとカリフラワーのアッシェ ピメント添え」が運ばれて来た。
    6か月漬けたカボスを使うエミルショネは、酸味はあるが角は取れてスズキと良く合う。カリフラワーを潰したもの(アッシェ)が、まるでポテトサラダの様な質感になっているのは驚いたが、器である溶岩プレートに引かれた白い丸が、「圓窓」を想起させた。

    (左)パンとオリーブ油(中央)(右)トコブシと雲丹のパイ仕立て長ネギと貝のソース
    (左下)スズキのロースト(下中央)カリフラワーのアッシェ(右下)絵になる風景



    辻静雄の言う「演劇的な空間」を経て、メインの皿へと繋がっていく。

    「愛鷹牛のロースト 赤カブのフラン 椎茸のクネ―デル 2種のタマネギ ふきのとう」

    「愛鷹牛(あしたかぎゅう)」は、勝又氏が力を入れている食材の1つであり、静岡でしかとれない銘柄牛である。
    勝又氏が、伊豆に見出した食材は「天城軍鶏」を始め幾つかあるが、生産者と消費者を繋げると言う事での、今で言う六次産業化の走りの様な事に取り組んだのは1つの功績だろう。
    今回のコースのメインはお任せ仕様であったので、何が出てくるのかは分からなかったが、”そういう事を含めての箱根”であるので、特にその事に問題は感じなかったが、欲を言えば、御殿場で育てられている”乳飲みの金華豚の仔豚”の方が興味があったかもしれない。
    「赤カブのフラン」が、薔薇の花を模したのか、椿を模したのか、聞くのを失念したが、ある意味懐石を意識した造りではないかと考えると、椿かなと思ったりもする。
    (勝又登氏は、茶の湯・茶道にも造詣が深い。)

    メインが終わり、デセールタイムへ。
    デセールは、「ルバーブのフラン」、ルバーブの赤さを意識した大理石様の皿が際立つ。イタリアで購入したものらしいとの事だったが、写真を時系列で観て行くと、透明感あふれる序盤から、緑色の中盤、そして赤い色の終盤と色合いが変化してきている。箱根の四季を表わしているかの様な演出もまた、(当然)計算されたものなのだろう。
    暫くして、紅茶とミニヤルディーズが盛られた籠は運ばれて来た。
    勝又氏の美意識には、茶の湯・茶道の意識が投影されている部分もあると思う。ミニヤルディーズは、花籠そのものであるし、これで抹茶が出たならば、茶の湯・茶道の茶事にいるのではと思ってしまうだろう。

    (左)メインの愛鷹牛(中央)赤カブのフラン(右)ルバーブのフラン(左下)ルバーブの断面(下中央)プチフルールの花籠(右下)テ



    さて、オーミラドーでの”演劇的空間”はこれで終了では無かった。

    実は、ここに来たのは、兼ねてから持っていた本に勝又氏のサインをして頂きたかったのだ。
    平成が終わりを告げる間際、ここに来たのは、(もちろん、料理を食べるためでもあるが)そのためであったと言っても過言ではない。
    昭和後期の日本が華やかになって行く下地を創った元気の良かった時代、その時代にパリ帰りのセンスと鼻っ柱の強さを引っ提げて日本のフランス料理に新風を吹き込んだ勝又氏は間違いなく業界のリーディングヒッターだろう。
    昭和56年5月20日に発行された、「シェフシリーズ第1号」。その記念すべき最初の人物が勝又氏であった。その中に記載されている豊かな料理の数々……。これがフランス料理かと心打たれたのであるが、その後、違う方面で彼の活躍を知る。
    平成8年3月1日発行された、「なごみ3月号」(淡交社)。その中で、彼のお点前をしている写真と、茶事に適う様なフランス料理の写真が載っており、非常に衝撃を受けたのであった。
    この2つの相対する本に、是非ともこの元号が変わる節目の時にサインを頂戴したいと思ったのだ。

    花籠のミニヤルディーズを摘まんで紅茶を飲んでいると、やにわに後ろから勝又氏が現れてご挨拶を頂いた。
    その登場の仕方も、やはり”演劇的”であった。
    「間合い」。それを計算しているところに、現役シェフとして未だに厨房に立っている氏の生きざまが見て取れる。
    (今日ここに来て、本にサインを頂戴したい事は、ミラドーに到着した際にお出迎えしてくれた件の髭の紳士にお願いをして快く取り次いで頂いた。)
    勝又氏に、「サインをするのはどの本?」と聞かれて、鞄から二冊の本を出す。
    「これかぁ」と言われて、笑われていたが、(良くこんな本探したなと言うところだっただろう)、懐かしそうに、かつ見られちゃった?と言うような茶目っ気たっぷりの表情で本を手に取って見ておられた。

    その後、30~40分前後だったであろうか。お忙しいところ、フランス料理の話や茶の湯・茶道の話など、大いにお話をさせて頂いた。
    若い人に真似されるうちが華だとおもっている
    御年73歳にして、未だ現役で調理場に立つ人間の言葉である。
    「秘すれば花也」 まさに風姿花伝を目の前に見た瞬間であった。

    主役の登場する幕も降り、ミラドーを立つ時間になっていた。
    最後、見送りに来てくれた髭の紳士に、「勝又さんとおっしゃるが?」と聞くと、「息子です」と。
    なるほど、件の紳士は、勝又氏のご子息であったか。親子の競演はまた見事なものであった。
    ビストロ・ド・ラ・シテ、レストラン・オー・シザーブル、オーベルジュ・オーミラドーと来て、日本のフランス料理の先駆者は、未だに現役で舞続けていた。
    「常に先陣を切る」その想いを、見、聞きもし、深く堪能した一幕。
    ”わざわざ箱根に行く”、その意味が良く分かった、午后の一時であった。

    (左)若き日の勝又氏(中央)西洋と東洋の融け合う時間(右)お点前をする勝又氏